この時間が好きだ。

夜、それも日付が変わるくらいの時間帯。

 

田舎ではもうみんな眠って、窓から周りの家を見てみても、電気のついている家などほとんどなくて。

そんな空間で独り、机の電気をつけてパソコンのキーを打ったり、ノートの罫線にそってペンを走らせたり。

横にひっそり、飲み物とお菓子も準備したりなんかして。

 

日常のさまざまな「音」から解放されて、ようやく1人になれた、そんな感覚に陥る。

調子の悪いときには思考が暗くなってしまって考え込む時間帯でもあるから、そこは困るところだけれど。

 

冬には窓を少しだけ開けて空を見上げると、オリオン座が輝いていたり、運がいいと流れ星を見つけたり。

 

 

静かに、しかし確実に更けていく「夜」の中で、わたしは思考を巡らせるのが好きだ。

この事象はどうしてこうなったんだろうとか、この事柄にたどり着くためにはどのような経路をたどるべきなのかとか、そういう答えの出ない問いを自分に投げかけてみる。

 

 

今こうしてキーを打ちながら考えているのは、「嫌い」について。

人間の(ある特定のものごとに対する)「嫌い」という感情は、どうしても「好き」や「うれしい」などのポジティブな感情よりもストレート、かつ誤解を生みやすい伝わり方をすることが多い。

 

それは仕方のないことかもしれないけれど。

「嫌い」の感情のモトを探れば、もう少しお互い傷つかない過ごし方ができるのではないだろうか。(傷つかない過ごし方というのが人間にとって正しい生き方なのかどうかという議論はここでは置いておいて)

 

「嫌い」という感情は、「自分の好みとは違う」という思いとイコールだと私は考える。

その物事、その現象が存在している以上、自分はそれが大嫌いであったとしても、それが大好きな人もいるのだ。

 

 

だから(もちろん思うときはいいのだが)口にする「嫌い」を「(これが好きな人もいるだろうけれど)私の好みではない」と言い換えてみれば、同じ感情を伝えるのであっても少しだけ表現が柔らかくなり、相手が受けるダメージも減るのではないか。

 

 

こんなことを思いながら、つくづく自分は日本人なのだなあと思う。

何がって、相手のことを想定して自分の感情をストレートに表現することをためらうという事実が。

こうやって相手の目を気にして、相手の受け取り方を気にして過ごしているが故に病気になったのなら、それはもう苦笑するしかないのだけれど。

 

嫌い、を好みじゃない、に変えてみる。

なかなかいいかも、知れない?