いなくなること 戻らないこと

深夜2時半を過ぎるころ。

 

睡眠薬抗不安剤抗うつ剤を計11錠(MAX量)飲んで1時間目を閉じて横になっても全く眠れない。

仕方なく起き上がって、真っ暗な部屋でこうしてキーを叩いています。

 

ナブナ「メリュー」とSEKAI NO OWARI「銀河街の悪夢」、センチミリメンタル「死んでしまいたい、」をリピートしながら、これまでだったり、これからだったりを考える。

わたしはどこへ向かっているのか。

何者になるべきで、何者になれるのか。

やりたいこと、やるべきこと、できることはそれぞれ違う。

 

2017年4月、入学。直後に1年間の休学を申請。

2018年4月、復学。完全不登校ギリギリラインの五月雨登校ながら進級。

そして2019年4月、2年生になった。

 

実習、選択プログラム。取得単位制限。

3週間の間の色々が身体中の不調となって出てきている。

 

大学に行く支度をしようとして目を覚ますが、身体が動かずベッドから起き上がれない。

泣きながら授業に出席しても、最後まで教室にいることができず途中退室して帰宅。

増える過剰服薬と、新しく腕にできる傷跡。

 

自分の嫌いなところ、病気、自傷行為

そういう色々を、いつか全部。

まるごと「これがわたし」って愛せるようになるといい。

 

…なんて、思っていたけれど。

それが叶う前に、きっと私は自らを殺す。

 

病気垢のタイムラインに、

「明日、死ぬことにしました。 今まありがとうございました」

という知らない人のツイートが流れてきて。

そのリプ欄に

「死もまた救いです。今までお疲れさまでした」

とのコメントがついていて、綺麗な世界だと思った。

 

死を決意した人間に対して、

「死んだら周りの人が悲しむ」

「親不孝」

などと言う人はたくさんいる。

 

その人の背景も、過程も、思考も、絶望も。

何も知らないのに。

 

人がひとり死んだところで世界は変わらない。

お店はいつも通り開店するし、学校だって休みにならない。

 

 

ただ。

残された人は。

 

わたしも、想像力が欠如しているわけではない(と思っている)

 

 

思い出すのは姉と祖父のこと。

 

3つ子だった。

3姉妹。

新生児の出生直後の平均体重は、1人約3000g。

それが、わたしたち姉妹は3人合わせてようやく3000gという小ささだった。

 

1番上の姉は、生まれつき心臓に疾患を抱えていた。

産後、ぼろぼろの身体で母は2日に1回病院に通った。

生後数か月で姉は幾度となく手術を受けた。

 

けれど。

生まれて5か月後。

冬だった。

冷たい病院で、姉は静かに死んだ。

 

母は冷たくなった姉を抱き、自宅に帰ったという。

それが、姉にとっての最初の帰宅だった。

 

もう少し大きくなったら着る予定だった、3着おそろいのベビー服を着て、姉は棺に入れられたという。

 

焼かれた後の骨。

少し力を入れただけで折れそうなほど、細かったんだよ。

父は12歳になったわたしと姉に言った。

 

たった数枚の写真と、血流が悪く赤黒い姉の肌、そして名前。

それがわたしにとっての、姉の記憶のすべて。

 

 

 

そして祖父のこと。

わたしが大学を休学して実家で過ごしていた、2017年。

 

9月の終わりが、もうすぐそこまで来ていた。

その日私は午前中に病院、そして夕方からアルバイトのシフトが入っていたため、朝早くからバスに乗って市街地に向かう予定だった。

 

いつものように交わした「おはよう」

 

 

これが、祖父とした最後の会話になった。

 

病院を出て、夕方のアルバイトまで時間があったので時間を潰そうと、私は通いなれたカラオケボックスに行った。

歌の休憩中、近くのコンビニで買ったポトフを食べていた時に入った母からのLINE。

 

「おじいちゃんが事故に遭って運ばれました。病院に行ってきます」

ちょっとまって、どういうこと?

 

状況が飲み込めなかった私は、今すぐ病院に向かったほうがいいのかを聞いた。

すると母は「まだなんとも言えないし、あなただってシフトに穴をあけられないだろうからバイトは休まないで行きなさい」と言ってきた。

 

言われた通りにその日のバイトをこなし、帰宅。

帰ってきたわたしに父は、「意識はまだ取り戻してないけれど、脳内の出血が収まったから、このまま出血がなけれじきに回復するだろうってさ、介護生活になるかもな」と言った。

病院からの緊急の連絡もなく、その日は就寝。

 

翌日。

その日はお昼過ぎからバイトのシフトが入っていたので、その前に祖父のお見舞いに行くことになった。

母に連れられて行ったのは、集中治療室。

 

沢山の機械に繋がれている祖父がいた。

家族でなければ誰だか分からないほどに顔中傷とあざだらけ、赤紫色にはれ上がっていた。

人工呼吸器の無機質な音が響く異質な空間で、わたしはたまらず祖父の手を握った。

 

あたたかい。

痩せて薄く、骨ばっているそれは、確かに祖父の手だった。

 

家族の中でわたしのことを誰よりも好きでいてくれて、いつも「あんたいい子だね」と頭をなでてくれていた祖父。

昨日の朝、いつも通りおはようのあいさつをしたのに。

 

目の前にいるのは、代わり果てた祖父だった。

 

 

急に涙があふれてきて、止まらなくなった。

父はああ言っていたけれど、わたしには直感で分かった。

 

祖父はもう目覚めることはない。

 

「あんた、バイトあるんでしょ。

行きな」

母が声を掛ける。

 

私が首を振ると、母は声に怒りをにじませた。

「待っている生徒がいるでしょう、責任をもって仕事をしなさい」

 

逆らえなかった。

涙を拭いてバスに乗り、バイト先の予備校に向かった。

 

感情を隠して授業をし、帰りのバスに乗るためにバスターミナルについて、少しした時。

 

 

「亡くなりました」

 

父から、たった一言連絡が入った。

頭の中で、集中治療室で聞いた機械音が響いていた。

 

途中の停留所でバスを降り、病院に向かった。

 

 

ベッドに寝かされた祖父の顔にかかっていた白い布。

母が許可を取ってその布をよけた。

 

顔の傷や怪我、顔色の悪さを除いたら、いつもの祖父となにも変わりはなかった。いますぐにでも、起きて話しかけてくれるんだと思った。

 

 

祖父の薄い手を握った

冷たかった

 

数時間前はあたたかかった手。

いつも私を抱きしめてくれていた手。

 

 

どんなに力を入れて握っても、もう握り返してはくれなかった

 

その日から、わたしたちは「家族」から「遺族」になった

ひとりの人間が死ぬということは、そういうことなのだと、祖父を亡くして知った。

 

 

 

 

ねえ、じいちゃん。

成人式の振袖が見たいってずっと言ってたよね、

わたしたち振袖着たよ、写真も撮ったよ。

ねえ。

なんで。なんで写真にじいちゃんはいないの。

一緒に映ろうよ、ねえ

 

 

叶わなかった、じいちゃんの88歳のお祝いもしたんだよ。

あまり食に興味のないじいちゃんだけど、

あの日の朝おばあちゃんに「うなぎが食べたいなあ」って、言ってたんだってね。

うなぎ、食べたんだよ。

ねえ、どうして、

じいちゃんのお祝いなのに。じいちゃんいないじゃん。

ねえ

帰ってきて

 

学校にいけない日、じいちゃんと猫と一緒に縁側で過ごしながらさ、

「学校に行けなくても、あんたはわしの大切でかわいい孫だ」

ってじいちゃんが笑って言ってくれたから。

だからわたし、今生きてるんだよ。

 

ねえ

戻ってきて

 

いつもそうしていたみたいに、

頭を撫でて

「あんたは本当にいい子だね」って笑ってよ

ねえ

 

 

人が

人間が1人亡くなるということは、そういうことなんだ